Masukあーあ……タイミング悪っ……。
律が眉間を指先で押さえたのと、うっかり絡んできた大学生かフリーターか年上らしい男が蓮の蹴りで吹っ飛んだのは同時だった。
恐らく、大した悪気もなく多少めんどくさい絡まれ方をしただけで、ありがちなことだ。前方不注意ですれ違いざまに肩がぶつかる、かばんが当たってしまうなどの日常的なトラブルで普通であれば互いに無視するか精々謝罪し合って済むものだったが、相手が柄悪く絡んできた。
それもきっと蓮本人が絡まれていたなら、大した問題ではなかったが、絡まれたのは律の方だった。律はテンプレ通りに謝って切り抜けようとしたが、相手はその態度が気に入らなかったらしい。そうなると手が付けられなくなるのは、蓮の方だ。
「てめぇっ! 勝手にぶつかってきといてなに律に絡んでんだよ。あぁ? 死ぬか?」
一人目を予備動作なしの蹴りで地面に沈めて、見下ろしながら腹の底から低い声で言い放つ。一緒にいたもう一人の男は怯えながら数歩後ずさっている。
……だからライオンなんだよなぁ……。
困ったものだな、と思いながら律は蓮の肩を叩いた。
「蓮。いいよ。帰ろう。僕たち制服だし目立ったらめんどくさいよ」
それでも蓮の苛立ちは収まらなかったらしく、舌打ちが聞こえた。
「通報でもされたらめんどくさいよ、蓮」
蓮の肩に手を置いたまま律がゆっくり言うと、蓮は短く「わかった」と返事して放り投げたかばんを拾い上げた。内心ではまだ納得もしていないし、怒りが収まったわけでもないだろう。それでも蓮は律の言葉をきく。
喧嘩沙汰になって警察が駆け付ければ、名前や保護者を訊かれることくらいは簡単に想像つく。そうなると厄介だと律は理解している。いくら町内で偏見なく温かな扱いをされていても、警察側から見れば律は言い逃れできない黒瀬組の長男で、蓮の保護者はやはり父なのだ。
駅の改札を無言でくぐると、蓮がぽつりと呟いた。
「クッソ……。なんだよあいつらウザ絡みしてイキってんだけじゃん」
「そうだね。蓮は強いから。でも、あそこで警察が来てたら僕らが高校生でもたぶん、分が悪い」
「ああー……っ! 腹立つっ」
蓮は苛立ち紛れに階段の壁を思いっきり殴る。短気で直情的。普段であれば、よく笑いよく拗ねる程度で普通の高校生となんら変わらないが、逆鱗に触れた途端、制御する間もなく考えるより行動してしまうのが蓮だ。そのことを律はよく知っている。
「あのさー、蓮が先にキレて蹴り入れるから僕が怒るタイミング失うんでしょ?」
少しだけ話の矛先を変えて律は蓮の顔を覗き込んだ。たかが多少柄の悪い年上とぶつかって絡まれた。それだけなのに瞬間沸騰のように怒って、消化しきれない気持ちが顔に出ている。
「れーん。コンビニのチキン奢るから機嫌直してよ」
「マジ!? じゃなくてさ! なんで律は平気なん? ムカつかない?」
「少しは腹立つよ。でもその前に蓮が蹴り入れちゃったし、あれ以上派手にやったら絶対めんどくさいし、僕が止めないとたぶん蓮、あいつらボコってたし。平気じゃないし、ムカついたけど全部蓮が持ってった」
「あー! やっぱボコっとくんだった。殺しとくんだった」
「それはやめよ、蓮。やり過ぎたらどうにもできなくなっちゃうよ。だからコンビニのチキンで忘れよ」
本気でやりかねない物騒なことを言う蓮に律は手を伸ばして頭を捕まえて癖っ毛をわしゃわしゃと撫でる。しばらくそうしていると蓮の仏頂面が次第に解けていく。そして吐きどころのない怒りが収まったかと思うと、蓮は溜息をつくように律の額に頭をつけて一呼吸置くとゆるりと撫でる両手から離れていった。
律から見だただけでわかる、蓮の機嫌。完全に納得したわけではないが、まだ高校生の理不尽をなんとか飲み込んでいる。
「蓮」
ふいっと先に階段を登っていこうとした蓮を律は呼び止めた。
「あんな下らないことで喧嘩すんなよバカ。……どうせ喧嘩すんなら、もっと僕が困ってる時に助けてよ」
律は蓮が先走って喧嘩しても怒らない。止めはするが、怒らない。蓮が自分のことのように怒って喧嘩するから止める理由がない。けれど、あえて言うならそこなのだ。
律が蓮の怒りを収めるのも、困っているからではない。機嫌を取りたい訳でもない。本当は律の機嫌だってよくはなく、蓮を宥めてようやく僅かな不機嫌が後出しでやってくる。
「え。あ、ごめんって律!」
驚いた顔をしてから一瞬遅れて蓮が律の隣に戻ってくる。
「あのさー……律、俺に怒ってんだよね、それ?」
「じゃなかったら誰だよ」
「ごめんってー……」
背中を丸くして蓮はしょぼくれている。「律、怒んないで」と長い前髪で隠れた顔で言われ、両手をぎゅっと握られた。凹んだ声に握力が反比例していて痛いくらいだ。
「れーん。コンビニのコーヒー奢って? んで、さ。蓮が怒ったことに僕が怒ってるんじゃないよ。僕たちまだ高校生だから、下らない喧嘩で警察の世話になりたくないでしょ。そういうことしたら……色々大事になりそうだから、嫌なだけ。保護者はって言われたら、たぶん、蓮だって言いにくいと思う」
両手を握られたまま、律は静かに説明した。蓮はこくりと頷く。反射的な返事なのかどうかまでは顔が見えなくて、律には判断できない。けれど、強く握られた両手が離されてゆるりと擦られた。
「……それは、俺も嫌。親父を下らん面倒ごとに巻き込みたくねえ」
「普通の家だったら、そこまで考えないのかな」
「わっかんね。でも親父があのまんま普通の親父でも拳骨はくらいそう」
片手で顔を擦って蓮は笑った。律も確かに、と笑う。
電車で最寄り駅まで戻って、駅の近くのコンビニによってレジ横のフライドチキンとホットコーヒーを奢り合い、イートインスペースでしばらくだらけていつものように家路についた。
*****
家の門が見えた辺りで「なにあれ」と言ったのは律の方だった。
住宅街の真ん中の目立つ日本家屋の門前に若い男たちが集まって何やらしている。
「ふはっ。兄貴たちなにやってんだ」
隣で蓮も同じ光景を見て笑った。
物騒ごとの気配はない。だが、どうして若い衆たちが門前で集まって何やらしているのか律には想像がつかなかった。そのまま近寄ってみると声が先に聞こえて「あっちに行ったぞ!」だの「待てって! さすがに高すぎじゃね?」などと言い合っているのが聞こえる。
「兄貴ー! 女でも追っかけてんのか―?」
冗談交じりに蓮が大声をかけると、若い衆たちは振り返って一斉に「しーっ!」と大声をたしなめてきた。いよいよ律にも蓮にも何事が起きているのかわからない。
「なにやってるの?」
「三丁目のばあちゃんちの猫が脱走したんすよ。んで、ウチん中で見っけたからばあちゃんちに届けようとしたら、捕まえらんなくてですね……」
随分平和な仁義なき猫との争いだな、と律は溜息をつきそうになった。こんないかつい男たちに追いつめられては猫も逃げたくなるだろう。先ほどの蓮の怒りっぷりを見た後だとあまりにも平和過ぎて、律は家の家業を忘れそうになる。
「猫ねえ……」
蓮も毒気を抜かれたように呟いている。
「蓮! お前、いいとこに帰ってきたじゃん! いまばあちゃんちの猫、門の上から倉庫まで登ってっちまったから捕まえてこい!」
「倉庫ってどの辺まで行ったの見たん?」
「そこの倉庫の屋根が一番門まで出張ってるとこから伝ってったのは見たけど、後はわからん」
「ふーん。んじゃ、ネコチャン追尾捕獲ミッションってこと?」
運動神経のずば抜けていい蓮が男たちに見事に捕まり、猫捕獲作戦が開始されているのを律は面白がって見ていた。
「じゃーさー、門の上までとりあえず登るから手え貸して。探してみっけど捕獲できんくても俺のせいにしないでねー。あと、他んとこも行ってないかバラけたほうがいいんじゃね?」
蓮は楽しそうに好き勝手言って「律、持っててくれる?」と中身の軽いかばんを渡してきた。
ぐい、と体を伸ばして門から距離を取る。門を背にして屈強な若い衆の一人が腰を落とし、両手をがっちり組んでスタンバイしている。
「んじゃ、お願いしゃっす!」
助走からのジャンプで律が若い衆の組んだ両手を足場にしたかと思うと、そのまま跳ね上げられて門の上に軽々と着地する。一瞬なのにさっきの蹴りよりも見ていて気持ちがいい。広くない不安定な足場でも平気で走っていく。蓮は聞いた通り門の上から倉庫の屋根に飛び移り裏側へと隠れてしまった。
「……蓮って曲芸でもできるんじゃない?」
「いやー、蓮の運動神経ならできるんじゃないっすか」
律が思わず零すと、近くにいた男に頷きながら同意された。
サーカスでもやればいいのに、と律は脈絡もないことを考えた。確かそのような興行も大昔だと取り仕切るようなことがあったとかどうだとか、などと思っているうちにしばらくたってしまった。
「あー!! 暴れんじゃねえっ! おとなしくしろっ! ばあちゃんとこ帰ろーなー」
蓮の大声が聞こえて、律は顔を上げた。倉庫の屋根の裏側から蓮がふっくらと大きな白猫を抱えて戻ってくる。捕獲するのに抵抗されたのか顔に引っかき傷が見える。赤い首輪の白猫は確かに三丁目の老婆の飼い猫だ。普段は家猫なのだ。蓮は抱えた白猫を撫でながら、瓦屋根の足元も見ずに門の上に飛び移り、こちら側に飛び降りて着地した。抱えた猫に衝撃も与えずに、なんでもないことのように。
「捕獲成功ー!」
大取物を終えたように両手で猫を抱き上げて蓮が報告すると、歓声が上がり、男たちが蓮の元に集まる。敷地内を探しに行った者に捕獲完了したことを伝えに行く男もいる。
「っしゃ! ようやったな、蓮!」
「こんくらい楽勝っしょ」
蓮から白猫を預けられた男は脱走犯・白猫を家に送り届けに走った。蓮はすっきりした顔で律の隣に戻ってきてかばんを受け取った。
「お疲れ、蓮。かっこいいじゃん」
「ネコチャン捕獲ミッションが!?」
「うん。顔のほかにも引っかかれてない?」
「あー、わかんね。何カ所か引っかかれた。あいつ箱入りお嬢なのに暴れんだもん」
「それは蓮が怖かったんじゃないの? 中入ろ。消毒しないと」
「大袈裟じゃん?」
そんなことを言い合いながら玄関で靴をぬいで「ただいま」を言う。
修治に相談した足でそのまま父に進路を決めたことを告げた後、律は父に茶化される前に早々に一度離れの自室にノートを戻し、食堂へと戻った。食堂では今日も何人かの子どもたちが集まって賑やかにしている。その中に混ざった蓮が一番騒がしい。そんな姿を見て、律はほっとした。──このままいて欲しい。起点が蓮だとしても、律の願いは案外シンプルなのだ。だからこそ、難しくもある。***** 夕食を終えて律と蓮が離れに引き上げ、蓮の部屋に落ち着く前に律は自室から昼間に修治と父に見せたノートを取ってきた。律が蓮に自分の気持ちを伝えるのはまだ早いと止めていた理由はほとんど解消した。高校卒業後の進路の確定。家業を継ぐことへの意思表示。その上で自分がしたいと思っていることの主張。 大学進学に関しては、最初から一時的な現実逃避にしかならないと考えていた。いずれ、家業は継がなければならない。暴力団という組織に与えられた一般的イメージから律の嫌悪は生まれたが、春から夏にかけて色々なことがあり、いままで律が気付いていなかった面を垣間見、考えることができた。蓮の過去に関しては、正直なところもっと穏やかな形で知りたかったと思わなくもないが、律自身が迷い、間違いを繰り返しながら関係を修復できたことは律の進路に対する方向性を決定づける要因の根源となったことは間違いない。蓮が進路のことを訊いても「律の行くところ」と迷いもなくすんなり答えるのと、律が散々考え抜いて決めた挙句に出した答えが似たり寄ったりなことに関しては性質の違い上仕方ないのだが、結果的には律にはその回り道が必要だったのだ。「蓮。考え事、終わった」 並んで座って、ぺたりと蓮に寄りかかったまま律は率直に言って、手にしていたノートを蓮の膝の上に置いた。この先、律がどうしたいかがそのノートには全て書かれている。もちろん、蓮にも知って欲しいと思ったのだ。元々、律は蓮に隠し事をしない。考え事をしている時だけ、頭の中の整理を兼ねてノートに散々書き散らし、終わるとノート自体は隠す気もない。蓮もどこか律が考え事を纏めたノートを見ることを楽しみにしている節がある。「んー?」 膝の上に置かれたノートをぱらりとめくる蓮に、律は恥ずかしさを感じ並んだ体の向きを変えた。少しだけ蓮に寄りかかっている面が背中に移る。「りーつー。いままでで最高のびっしり度なんじゃね?
うーん、と唸りながら律は蓮の部屋のベッドでうつ伏せになってノートにメモ書きをしながら頭を悩ませていた。 蓮はオンラインゲームのレイド戦の真っ最中で、ボイスチャットをオンにしたまま時々スラング英語で喚いている。鼻歌を歌う時といい、オンラインゲームのボイスチャットといい、なぜか蓮は学校の英語の成績がいい訳ではないのに発音はきれいだしコミュニケーションも取れてしまう。ぱたりと顔をノートに伏せて律は賑やかにしている蓮の声を聞く。「Incoming! I got him!! Aaaaaah!!」 深夜帯のオンラインゲームになると野良でレイドバトルに参加し、臆面もなくすんなりとその場限りのプレイヤーとボス戦を繰り返しては楽しそうにしている蓮の声を聞いていると、律は素直に凄いなと思う。恐らく武道と同じで文法や単語よりも体感で覚えて実践でなんとかなってしまうタイプなのだ。英語の発音がいいのは蓮の母親が英語の歌を歌って聞かせていた影響もあるかもしれない。「let's gooo!! gg ez!」 ふふん、と得意げにしている声を聞くに、蓮はボスを仕留めたらしい。 ようやく律は突っ伏していた顔を上げた。蓮が好きなゲームの画面を見ていると、律は時々画面酔いをしてしまい気持ち悪くなり、できるだけ見ないようにしている。「蓮、今日もお手柄?」「もちろーん」 ベッドの上から律が声をかけると、蓮が律を振り返って上機嫌で返事する。戦闘終了画面のまま両手に持っていたコントローラを手放して、ベッドにぺたりと寄りかかる蓮に律は片手を伸ばして茶色い癖っ毛をわしゃわしゃと撫でる。……本当に大型犬だったらどうしよう、などと律はふと笑う。ゲームのボス戦で手柄を立てたから偉いでしょ。だから撫でて。返事したときの蓮がそんな風に律を振り返ったように思えたのだ。「蓮ってさ、警戒心とかある?」 ふと律が蓮を撫でながら訊くと「あるよー」と全く警戒心を感じさせない緩い声が返ってきた。言葉と声音が一致していなくて思わず律は本当か? と疑いそうになる。「もし仮に、僕がこうやって蓮のこと撫でたまま、いきなり殴ったりとか……考えたことないの」「ない。律はそんなことしないもん」 きっぱりと言い切られてしまうと律はなにも言い返せなくなり、蓮を引き寄せて両手でぎゅっと抱いた。「うん。しないよ」 どうしてそん
夏休みの間、律は普段より長い間起床後、離れの縁側で考え事をし、その後は蓮を起こして朝食の後は休みだというのに昼間黒瀬家に入り浸る子どもたちと一緒に過ごすことが多い。時々、蓮と二人で町中華を食べに行ったり買い物をしたりと出かけもする。 子どもたちと言っても小学生から上は律と蓮と同じく高校生まで幅が広い。中学生や高校生ともなると言うこともほぼ同年代のレベルになるが、学校のクラスメイトだと女子を律から遠ざける蓮はなぜか黒瀬家に入り浸る不登校児には威嚇しない。むしろ不思議なくらい馴染んで一緒にはしゃいですらいる。 夏休みの間、黒瀬家に入り浸る子どもたちは顔ぶれがくるくると入れ替わるが、中に律が知っている中で毎日くる子がいた。まだ小学校中学年か高学年かの痩せた女の子。無口で、あまり誰とも喋らず、いつも隅で膝を抱えて静かに本を読んでいる。普段の律は学校に行っている間に子どもたちが帰ってしまうため、事情に詳しくないが、なぜかその子どもが気になっていた。 盆が終わり、八月も下旬に差し掛かったある日。珍しく昼間黒瀬家の食堂で賑やかしく遊ぶ子どもが少なく、年齢もばらばらな子が五人ほどしかいなかった。そして、その日もその痩せた女の子は部屋の隅で本を読んでいた。他には同じく小学生が二人、中学生と高校生が一人ずつ。中学生と高校生は両方とも女の子で話に熱中しており、二人の小学生は蓮が一緒に庭で遊んでいた。 律は痩せた女の子がどうしても気になり、そっと近づいてしゃがみこんだ。「ねえ、隣にいてもいいかな」 怖がらせないように、と内心びくびくしながら律は女の子に声をかけた。祭りの屋台に遊びに来る子どもたちとは雰囲気が違う。無邪気な人懐っこさがなく、子どもに慣れている律でも慎重になってしまう。いつも一人で部屋の隅で一人で本を読んでいて、無口で、ほとんど誰とも喋らないのに毎日来る子ども。どこか矛盾を感じる。 女の子は顔を上げてこくりと頷いて、また視線を本に移した。一瞬だけあった目が、子どもなのに無気力で律はぞくりとする。その目を律は知っている。律と父が蓮に怒鳴り散らし、傷を抉ってしまった時の虚ろさに似ていた。 隣に座り込んだはいいが、律はどう彼女に話しかけていいのか会話の糸口が見つからない。女の子は律がいることには頷いたが、そのまま本を読んでいて話をする意思はなさそうだ。無理に話しか
蓮が安静を言い渡された一週間はあっという間に過ぎて、その後の検査でも異常はなく、晴れて自由の身となり律はほっとした。家出騒ぎ──なのか、逃走劇か──の後、数日間だけ蓮の様子はぎこちなかったが、揶揄いこそするものの誰も蓮を責めなかったのもあってか、安静中の一週間のうちに普段の調子に戻っていた。ただ、ひとつだけ蓮には不満が残った。週末の朝稽古で許可が出るまで先制を封じられたのだ。手合わせの際に癖で先制攻撃をしてしまった場合、稽古後の道場の床掃除がペナルティ。「りーつー……先制禁止とかもうキッツイんだけどー!」 二週目の朝稽古の後、蓮は勢いよくモップを手に走り回りながら文句を言ってきた。「んー、それはさあ、蓮の自業自得? だよね。間が悪かったとはいえさ。ちゃんと反撃も防御もできるのにしなかったから。あー。あと、蓮ってさ、手合わせだと先制取って相手を自分のペースに巻き込むじゃん。だから、みんなからしたら先制禁止にしないと、蓮に反撃と防御を叩き込めないって言うか……」 ペナルティの床掃除中の蓮に向かって律は考えながら返事した。掃除中の蓮の邪魔にならないよう、律は道場の入り口のところで戸口に背を預けている。蓮が早く掃除を終わらそうとモップがけをしながら「ええー!」と抗議を示した。「僕はあまりそういうのわかんないけど、何度もそういう条件でやってたら体が覚えるっていうじゃん。付け焼刃かもしんないけど、蓮に同じ目にあってほしくないんだよ」「……」 基礎の部分だけ習得した後は向いていないからとやめてしまった律に言われた蓮は無言になった。優劣の問題ではなく、そもそも先制を封じられた理由を蓮自身も自覚しているからだろう。 なにも考えてなかった、と父に説教された時に答えた言葉は間違いなく蓮の本心だ。それだけ自暴自棄になった蓮には危害に対する防御も反撃も無意味になってしまうことが既に立証済みなのだから、先制を封じて反撃と防御を叩き込もうとしているのだろう。元々、運動神経も反射神経も優れていて飲み込みが早かった分、ここまでゲームのように得意な部分だけを楽しむように伸ばしてきた蓮が不服に感じるのは仕方ない。「じゃあさ、蓮。僕と一本やってみる?」 ふと律が思いついて言うと、モップを掛けて走り回っていた蓮がぴたりと止まった。「は? マジ言ってんの?」「嘘ついてどうすんの」
朝になって蓮は院長から簡単な問診を受けると、帰宅の許可が下りた。その後、修治が蓮の着替えを持ってきた。普段と変わらない様子で着替えの入った袋を渡し「準備ができたら帰りますよ」とだけ言った修治に、蓮は少し迷ったように俯いて唇を噛んでいたが、思い切ったのか勢いよく頭を上げた。「修治! 昨日は……ごめん」 バツの悪そうな顔をしている蓮を振り返った修治は、顔色一つ変えずにあっさりと返事した。「私は仕事を遂行しただけです。謝罪する相手が違うでしょう、蓮」 それだけ言い残して修治は病室を出ていった。恐らく、廊下で蓮の帰り支度を待っているだろう。「……修治、こえー……」 受け取った袋を抱えて蓮はぐったりとへたりこんだ。律は蓮の様子に笑いそうになってしまう。いままでも、律や蓮が一般的に叱られるようなことをしても修治は一切の謝罪を受け取らない。窘められることはあっても「ごめんなさい」を受け入れてもらえない。蓮も修治の態度にはなれているはずだが、今回はさすがに近くで修治の実務を見ていた分、律は少しだけ修治も根に持っているだろうなと邪推してしまう。「ほら、蓮。着替えて帰ろ」「帰ったら、親父にも説教されんだろ? いーやーだー……」「連も、ちゃんと父さんに言ったらいいよ。僕に言ったのと同じこと。父さんだって理由もなく頭ごなしにお説教しないし」 律がフォローのつもりで蓮を促すと、ベッドに座ってぐったりとしていた蓮が恨みがましそうな目で見上げてきた。「それさー、俺がなんか言っても火に油じゃん? バカか、って言われて余計説長くなんじゃん」 それも確かにそうだ、と律は思ったが、口にした言葉は違った。「でもさ、やっぱ言った方がいいんじゃないかな。僕は蓮がちゃんと話してくれたから納得したし、いま蓮がまだ少し怖がってんじゃないかなって思うけど、言わないとわかんないよ。父さんなんてただでさえ勢いだけで生きてるような人なんだから、話さないと伝わんないよ。だから、親子喧嘩、すればいいじゃん」 ふふ、と律は笑う。律は蓮の本当の父親を知らない。知りたいとも思わないが、六歳から一緒に育って蓮の方がよほど父の子と言われても不思議ではないほど似ているところがあると思う。直情的で勢い任せなところ、声が大きいところ、不器用なところ。上げたらきりがない。修治の言うように、蓮が母親似の部分はたくさ
蓮は病室で病衣に着替えさせられて眠っていた。着ていたものは丁寧に畳まれているが、血痕や汚れが酷く律は思わず目を背けた。備え付けの簡素な椅子をベッドの脇に引き寄せ、消灯後の暗い病室に読書灯だけが灯る中で腰を下ろしてしばらくじっと蓮の寝顔を見ていた。 体の至る所に包帯やガーゼの処置さえなければ、いつもと同じく眠っているように見える。痛みに苦しんでいる様子も、悪夢にうなされている様子もない。──でも、蓮は目を覚ましたらどんな反応をするだろう? 律にはそれが気がかりだ。 父は荒い気性ゆえに蓮を殴って目を覚まさせろだなどと言う。律にも今回ばかりは一発くらいは殴ってしまいたい気持ちはある。けれど、生来の乱暴を好まない性質と、いまだ自責してしまう不器用さが簡単に手を上げる判断に至らない。そもそも、殴るという暴力を行使してもなんの解決にもならない。状態の悪化すら考えられる。好きなのに、手を上げるなんておかしい。 ふと、思いついて律は蓮の片手を布団からそっと出すと、背中を丸めて両手で包んだ。 まだ、蓮が黒瀬家に引き取られたばかりの頃、よく手を繋いだまま同じ布団で眠っていた。一人寝に慣れていないのは蓮の方だったのだ。六歳とはいえ母を亡くしたばかりで、表面上の悲壮感は薄かったが、夜になると寂しさで押し潰されそうになり「りつ……」と枕を抱えて布団に潜り込んできていた。そんなことを律は思い出した。 家の者たちから追いかけられ、逃げ回った蓮の本意はわからない。だが、蓮は大きな勘違いをしたままだということだけは確かだ。自分に対して疑心暗鬼のまま。その内側は不安と寂しさに満ちているのだろう。蓮はもう、律を受け入れないかもしれないが、律にも譲れない気持ちがある。だから、目が覚めるまででも伝う温度が少しでも蓮の心を癒せばいい。「蓮が、怖くない場所を僕が作れたら、まだここにいてくれるかな」 ぽつりと律は呟く。 暗い病室で読書灯だけが頼りの中、呟いた声はやけに大きく響いたように感じた。頼りない明かりに浮かぶ蓮は眠ったままで律の独り言には返事をしない。 ──優しい場所。そんな風に律は初めて自分の家のことを認識した。粗暴さはあっても、理不尽な暴力はない。蓮が出て行くといって飛び出したと知れば、理由など聞く前に誰もが探すことに必死になる。困っている、弱い立場の人間に無尽蔵に手を伸ばしてしま







