LOGINあーあ……タイミング悪っ……。
律が眉間を指先で押さえたのと、うっかり絡んできた大学生かフリーターか年上らしい男が蓮の蹴りで吹っ飛んだのは同時だった。
恐らく、大した悪気もなく多少めんどくさい絡まれ方をしただけで、ありがちなことだ。前方不注意ですれ違いざまに肩がぶつかる、かばんが当たってしまうなどの日常的なトラブルで普通であれば互いに無視するか精々謝罪し合って済むものだったが、相手が柄悪く絡んできた。
それもきっと蓮本人が絡まれていたなら、大した問題ではなかったが、絡まれたのは律の方だった。律はテンプレ通りに謝って切り抜けようとしたが、相手はその態度が気に入らなかったらしい。そうなると手が付けられなくなるのは、蓮の方だ。
「てめぇっ! 勝手にぶつかってきといてなに律に絡んでんだよ。あぁ? 死ぬか?」
一人目を予備動作なしの蹴りで地面に沈めて、見下ろしながら腹の底から低い声で言い放つ。一緒にいたもう一人の男は怯えながら数歩後ずさっている。
……だからライオンなんだよなぁ……。
困ったものだな、と思いながら律は蓮の肩を叩いた。
「蓮。いいよ。帰ろう。僕たち制服だし目立ったらめんどくさいよ」
それでも蓮の苛立ちは収まらなかったらしく、舌打ちが聞こえた。
「通報でもされたらめんどくさいよ、蓮」
蓮の肩に手を置いたまま律がゆっくり言うと、蓮は短く「わかった」と返事して放り投げたかばんを拾い上げた。内心ではまだ納得もしていないし、怒りが収まったわけでもないだろう。それでも蓮は律の言葉をきく。
喧嘩沙汰になって警察が駆け付ければ、名前や保護者を訊かれることくらいは簡単に想像つく。そうなると厄介だと律は理解している。いくら町内で偏見なく温かな扱いをされていても、警察側から見れば律は言い逃れできない黒瀬組の長男で、蓮の保護者はやはり父なのだ。
駅の改札を無言でくぐると、蓮がぽつりと呟いた。
「クッソ……。なんだよあいつらウザ絡みしてイキってんだけじゃん」
「そうだね。蓮は強いから。でも、あそこで警察が来てたら僕らが高校生でもたぶん、分が悪い」
「ああー……っ! 腹立つっ」
蓮は苛立ち紛れに階段の壁を思いっきり殴る。短気で直情的。普段であれば、よく笑いよく拗ねる程度で普通の高校生となんら変わらないが、逆鱗に触れた途端、制御する間もなく考えるより行動してしまうのが蓮だ。そのことを律はよく知っている。
「あのさー、蓮が先にキレて蹴り入れるから僕が怒るタイミング失うんでしょ?」
少しだけ話の矛先を変えて律は蓮の顔を覗き込んだ。たかが多少柄の悪い年上とぶつかって絡まれた。それだけなのに瞬間沸騰のように怒って、消化しきれない気持ちが顔に出ている。
「れーん。コンビニのチキン奢るから機嫌直してよ」
「マジ!? じゃなくてさ! なんで律は平気なん? ムカつかない?」
「少しは腹立つよ。でもその前に蓮が蹴り入れちゃったし、あれ以上派手にやったら絶対めんどくさいし、僕が止めないとたぶん蓮、あいつらボコってたし。平気じゃないし、ムカついたけど全部蓮が持ってった」
「あー! やっぱボコっとくんだった。殺しとくんだった」
「それはやめよ、蓮。やり過ぎたらどうにもできなくなっちゃうよ。だからコンビニのチキンで忘れよ」
本気でやりかねない物騒なことを言う蓮に律は手を伸ばして頭を捕まえて癖っ毛をわしゃわしゃと撫でる。しばらくそうしていると蓮の仏頂面が次第に解けていく。そして吐きどころのない怒りが収まったかと思うと、蓮は溜息をつくように律の額に頭をつけて一呼吸置くとゆるりと撫でる両手から離れていった。
律から見だただけでわかる、蓮の機嫌。完全に納得したわけではないが、まだ高校生の理不尽をなんとか飲み込んでいる。
「蓮」
ふいっと先に階段を登っていこうとした蓮を律は呼び止めた。
「あんな下らないことで喧嘩すんなよバカ。……どうせ喧嘩すんなら、もっと僕が困ってる時に助けてよ」
律は蓮が先走って喧嘩しても怒らない。止めはするが、怒らない。蓮が自分のことのように怒って喧嘩するから止める理由がない。けれど、あえて言うならそこなのだ。
律が蓮の怒りを収めるのも、困っているからではない。機嫌を取りたい訳でもない。本当は律の機嫌だってよくはなく、蓮を宥めてようやく僅かな不機嫌が後出しでやってくる。
「え。あ、ごめんって律!」
驚いた顔をしてから一瞬遅れて蓮が律の隣に戻ってくる。
「あのさー……律、俺に怒ってんだよね、それ?」
「じゃなかったら誰だよ」
「ごめんってー……」
背中を丸くして蓮はしょぼくれている。「律、怒んないで」と長い前髪で隠れた顔で言われ、両手をぎゅっと握られた。凹んだ声に握力が反比例していて痛いくらいだ。
「れーん。コンビニのコーヒー奢って? んで、さ。蓮が怒ったことに僕が怒ってるんじゃないよ。僕たちまだ高校生だから、下らない喧嘩で警察の世話になりたくないでしょ。そういうことしたら……色々大事になりそうだから、嫌なだけ。保護者はって言われたら、たぶん、蓮だって言いにくいと思う」
両手を握られたまま、律は静かに説明した。蓮はこくりと頷く。反射的な返事なのかどうかまでは顔が見えなくて、律には判断できない。けれど、強く握られた両手が離されてゆるりと擦られた。
「……それは、俺も嫌。親父を下らん面倒ごとに巻き込みたくねえ」
「普通の家だったら、そこまで考えないのかな」
「わっかんね。でも親父があのまんま普通の親父でも拳骨はくらいそう」
片手で顔を擦って蓮は笑った。律も確かに、と笑う。
電車で最寄り駅まで戻って、駅の近くのコンビニによってレジ横のフライドチキンとホットコーヒーを奢り合い、イートインスペースでしばらくだらけていつものように家路についた。
*****
家の門が見えた辺りで「なにあれ」と言ったのは律の方だった。
住宅街の真ん中の目立つ日本家屋の門前に若い男たちが集まって何やらしている。
「ふはっ。兄貴たちなにやってんだ」
隣で蓮も同じ光景を見て笑った。
物騒ごとの気配はない。だが、どうして若い衆たちが門前で集まって何やらしているのか律には想像がつかなかった。そのまま近寄ってみると声が先に聞こえて「あっちに行ったぞ!」だの「待てって! さすがに高すぎじゃね?」などと言い合っているのが聞こえる。
「兄貴ー! 女でも追っかけてんのか―?」
冗談交じりに蓮が大声をかけると、若い衆たちは振り返って一斉に「しーっ!」と大声をたしなめてきた。いよいよ律にも蓮にも何事が起きているのかわからない。
「なにやってるの?」
「三丁目のばあちゃんちの猫が脱走したんすよ。んで、ウチん中で見っけたからばあちゃんちに届けようとしたら、捕まえらんなくてですね……」
随分平和な仁義なき猫との争いだな、と律は溜息をつきそうになった。こんないかつい男たちに追いつめられては猫も逃げたくなるだろう。先ほどの蓮の怒りっぷりを見た後だとあまりにも平和過ぎて、律は家の家業を忘れそうになる。
「猫ねえ……」
蓮も毒気を抜かれたように呟いている。
「蓮! お前、いいとこに帰ってきたじゃん! いまばあちゃんちの猫、門の上から倉庫まで登ってっちまったから捕まえてこい!」
「倉庫ってどの辺まで行ったの見たん?」
「そこの倉庫の屋根が一番門まで出張ってるとこから伝ってったのは見たけど、後はわからん」
「ふーん。んじゃ、ネコチャン追尾捕獲ミッションってこと?」
運動神経のずば抜けていい蓮が男たちに見事に捕まり、猫捕獲作戦が開始されているのを律は面白がって見ていた。
「じゃーさー、門の上までとりあえず登るから手え貸して。探してみっけど捕獲できんくても俺のせいにしないでねー。あと、他んとこも行ってないかバラけたほうがいいんじゃね?」
蓮は楽しそうに好き勝手言って「律、持っててくれる?」と中身の軽いかばんを渡してきた。
ぐい、と体を伸ばして門から距離を取る。門を背にして屈強な若い衆の一人が腰を落とし、両手をがっちり組んでスタンバイしている。
「んじゃ、お願いしゃっす!」
助走からのジャンプで律が若い衆の組んだ両手を足場にしたかと思うと、そのまま跳ね上げられて門の上に軽々と着地する。一瞬なのにさっきの蹴りよりも見ていて気持ちがいい。広くない不安定な足場でも平気で走っていく。蓮は聞いた通り門の上から倉庫の屋根に飛び移り裏側へと隠れてしまった。
「……蓮って曲芸でもできるんじゃない?」
「いやー、蓮の運動神経ならできるんじゃないっすか」
律が思わず零すと、近くにいた男に頷きながら同意された。
サーカスでもやればいいのに、と律は脈絡もないことを考えた。確かそのような興行も大昔だと取り仕切るようなことがあったとかどうだとか、などと思っているうちにしばらくたってしまった。
「あー!! 暴れんじゃねえっ! おとなしくしろっ! ばあちゃんとこ帰ろーなー」
蓮の大声が聞こえて、律は顔を上げた。倉庫の屋根の裏側から蓮がふっくらと大きな白猫を抱えて戻ってくる。捕獲するのに抵抗されたのか顔に引っかき傷が見える。赤い首輪の白猫は確かに三丁目の老婆の飼い猫だ。普段は家猫なのだ。蓮は抱えた白猫を撫でながら、瓦屋根の足元も見ずに門の上に飛び移り、こちら側に飛び降りて着地した。抱えた猫に衝撃も与えずに、なんでもないことのように。
「捕獲成功ー!」
大取物を終えたように両手で猫を抱き上げて蓮が報告すると、歓声が上がり、男たちが蓮の元に集まる。敷地内を探しに行った者に捕獲完了したことを伝えに行く男もいる。
「っしゃ! ようやったな、蓮!」
「こんくらい楽勝っしょ」
蓮から白猫を預けられた男は脱走犯・白猫を家に送り届けに走った。蓮はすっきりした顔で律の隣に戻ってきてかばんを受け取った。
「お疲れ、蓮。かっこいいじゃん」
「ネコチャン捕獲ミッションが!?」
「うん。顔のほかにも引っかかれてない?」
「あー、わかんね。何カ所か引っかかれた。あいつ箱入りお嬢なのに暴れんだもん」
「それは蓮が怖かったんじゃないの? 中入ろ。消毒しないと」
「大袈裟じゃん?」
そんなことを言い合いながら玄関で靴をぬいで「ただいま」を言う。
「どうしてって、律。お前なぁ……」 父は大きな溜息をつき、こめかみを押さえた。どうしてわからないのかといった雰囲気が伝わるが、律にわからないものはどうしようもない。そして、わからないから余計に不安になるのだ。だが、律はそれをうまく言葉にして伝えられなく不安から焦燥感が増していく。手に握った犬のキーホルダーに力が入る。「竜一さん。若は蓮がここに来る前のことをほとんど知らないのですから、説明するにはいい機会では?」 パソコンの画面から視線を離すことなく、修治が簡潔に口を挟んできて、父はまた溜息をついた。「んなこと、俺が言う筋でもないだがなぁ……」「六歳までの記憶を頼りに蓮自身が語るのを待つのは非合理的ですし、客観性に欠けます。蓮もあなたの息子なんでしょう? 親の責任ですよ」 父と修治の会話の裏にはなにか怖いものが潜んでいると律は直感した。どうして、と安易に訊いたことの説明に理屈抜きの未知の恐怖が滲む。それでも律は蓮が「律を殴るくらいなら出て行く」と言った理由がわからなく、なんらかの原因があるのなら知りたいと思う。知らなければ、律はなにひとつ納得できない。「僕が父さんに聞いちゃ駄目なことなら、蓮が帰ってきたらどうしてあんなこと言ったのかいくらでも問いただす。でも、蓮も覚えてないようなことなら、問いただしてもまた蓮を傷付けるだけだ。それは嫌なんだよ」 律はぐちゃぐちゃに混乱した頭でなんとか自分の主張を口にした。どこかに行ってしまった蓮は若い男たちと修治が総出で探している。なにも持たないで出て行った蓮がいくら体力があろうと逃げ切れるとは思えない。時間がかかったとしても、きっと帰ってくるだろう。ならば、律はただ無為に時間をやり過ごして待つのではなく、知らずに蓮を追い詰めていた原因と向き合わなければならないのではないか。 普段よりも冷静さを欠き、頭の回転も鈍くなっている。 それでもなにもしないで無知のままでいるよりは、まだましだ。「……けったくそ悪い話やぞ……」 苦虫を噛み潰したような顔で父は吐き捨てるように言った。「いい。僕は……蓮が笑ってるとこしか知らないから」 感情ばかりが先走って焦って慌てていた律の気持ちが潮の引くように静かになった。いま、律ができること。蓮を理解したい、一緒にいたいという気持ち。それから、好きという感情。どれも、律が知ってい
がしゃん、と叩きつけるような玄関の音を律は動けないまま聞いた。嫌いという拒絶ではなく、出て行くという断絶の音のように聞こえ、律は少しの間呆然としたが、そんな場合ではないと慌ててかばんを手繰り寄せてスマホを手にした。 帰宅後、ほったらかしにしていたスマホには気付かないうちに蓮からのメッセージが何件も未読でたまっていた。 律、どこいんの? 立ち聞きしてねーって 待ってただけ なあ、律? シカト? 怒ってんの? どーして? 全て、律が着信に気付いていなかっただけだが、そのメッセージで次第に蓮の不安が増幅していっているのが伝わる。律は何度も入力を間違えながら「どこにいるの」とメッセージを送ったが、不自然なほどすぐそばで着信音がした。は、と顔を上げると部屋の入口に蓮のかばんが放り投げられたままだ。ふらりと糸が切れたように力なく出て行った蓮はなにも持っていっていない。律が蓮のかばんを開けてみると、中にはスマホも財布もそのまま。学校から帰ってきた制服の、そのままで。「……蓮。ほんとうにどこに行ったの……」 なにも持たない身一つで。 心の半分が急に毟り取られたような気持ちで律は呆然と自分のスマホと蓮のかばんを持ったまま崩れ落ちる。 冗談でも蓮が家を出て行くなどと言ったことはいままでない。それどころか蓮ひとりの希望ならば大人になったら黒瀬組に入れろと小さな頃から父に要求していた。蓮にとってこの家と黒瀬組という場所は単純な暴力団ではなかった。むやみやたらに暴力でなんでもねじ伏せるような──理不尽な暴力を加える蓮の父とは違った使い方をする場所だった。そのことを律が知らなかっただけで、蓮は体感として小さな頃から知っていたのだろう。だからと言って、 まだ十七歳の高校生の蓮が、なにも持たずに一人であてもなにもなく家を出て、心配しないなどという方が無理だ。武道の心得があり、強く健康でも、それを支えるものがなにもない。「探さなきゃ。……探して……」 それからどうしたらいいかなど、まだ律にはわからない。けれど、ひとりでなにも持たずに出て行った蓮が、ただの一時の苛立ちでそう言ったのではないというのだけはわかる。本当に蓮は律を殴ったかもしれない自分を疑っているのだ。せめてその疑いさえ晴らすことができれば、例え蓮との関係が修復できなくても蓮が出て行く理由はなくなる。
帰宅すると律は自室にこもって頭を抱えた。 どうしてあんなことを言ってしまったんだろうという後悔が襲ってくる。ちゃんと蓮と普通に接することができると思った矢先なのだ。完全に律の八つ当たりで、蓮に非はないのに勝手に立ち聞きだと決めつけて怒鳴り散らした。律は蓮がどんな顔をしていたのかも見ていない。好きだと思う。大事だと思うのに、自覚するほど上手くできない。 気持ちは本当なのに、嘘をついている様な感覚が拭えない。 何度も蓮が壊れてしまう前に戻りたいと修復を試みているのに失敗してしまう。一度壊れてしまったら同じには戻れないのだろうか。割れた茶碗を直しても金継ぎの跡が残ってしまうように、なにもかも元通りなどというのは都合が良すぎる願いなのか。「このままじゃ……蓮に嫌われる」 呟いた言葉は想像以上に現実味を帯びて律を震わせた。 いままで例え些細な喧嘩をしてもすぐに仲直りしていたが、律がこのままではいくら蓮でも我慢の限界が来るだろう。その果てにあるのは、蓮のいない世界。六歳から数えて十一年、ずっと一緒にいた分、律には蓮のいない世界など想像もつかない。父や修治がずっといたのと同じく、律の世界に蓮は存在していることが当然で当たり前すぎた。それが自分の身勝手で失うとしたら、恐ろしすぎる。「それは……駄目。ちゃんとしなきゃ。普通に、しなきゃ」 律が小さくなって頭を抱えている間に放りだしたかばんのポケットからはみ出したスマホの画面が明るくなり、通知を知らせていたが音声を切ったままで律は気付きようもなかった。 しばらくして部屋の木戸が遠慮なしにがらりと開けられ、驚いて律は顔を上げた。肩に引っかけたかばんを放り投げ、蓮がずかすかと律に近寄り、しゃがみこんで近い距離を詰めてくる。それだけで律は緊張してしまい、混乱する。なにか言わなくてはならないと思いながら、言葉が出てこない。「なあ、律。俺、なんかした?」 普段よりも低い蓮の声。かばんを放り投げた仕草に滲む苛立ち。「して、ない。ごめん……八つ当たり、した」「そんだけじゃねえよなー? 別に八つ当たりなんてどーでもいいんだよ。最近の律、変。だから、俺、なんかしたんかなって訊いてんの」「してない。蓮はなにもしてない。僕が悪いだけだから」 少しでも距離を取ろうとしても律の背中はベッドでどうにもならない。蓮の真っ直ぐな視線が
──蓮を好きだなんて、当然だと思っていた。だって、六歳からずっと一緒にいて同じ年で、家の中で一番近い子供っていう存在。喧嘩らしい喧嘩もほとんどない。それだけ仲が良くて嫌いだという方が無理がある。 けれど──好きって、なに? 恋愛感情って、なに? いままで思っていた好きとなにが違うの。特別に好きって、家のみんなと商店街の人たちに対する好きの度合いが違うのと同じじゃないの。ただ、その好きの一番が蓮なだけで。 律はぐるぐると考え、しまいには辞書を引っ張り出し、意味を引いた。 恋愛感情。相手を恋しいと思うこと、恋を抱いた感情、などの意味の表現。 そしてまたわからなくなる。恋とは、と。そして、今度は恋の項目を引く。 恋。一・特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。「—に落ちる」「—に破れる」二・土地、植物、季節などに思いを寄せること。 これもまた抽象的で判然としない。律にとって蓮を好きなことは自然で、一番になることも当然なのだ。特定の相手に強く惹かれると言われても他に比較対象がない。切ないまでに深い思いというものを知らない。 律は辞書を放り投げてぐったりとベッドに体を投げ出した。修治はきっぱりと恋愛感情以外になにがあると言ったが、律には蓮を好きなことが当然すぎて、恋愛というもの自体が縁遠すぎたものでまったく理解が追い付かない。辞書を引いても説明は抽象的で具体例がない。そもそも恋愛感情や恋というもの自体は人によって形が違うのだろうから、具体例を出しようもないのかもしれないが、それでは困る。「だってさ……蓮だって困るじゃん? 僕が蓮を特別に好きとかいったらさ……。僕、男だし」 ふと独り言を呟くと、律はなにか急に頭がすっきりした。 そもそも恋愛感情とは相手に伝えなければならないものなのか。律が驚いて動揺してしまったのは不意打ちのキスのせいだ。けれど蓮はキスとも認識していない。血が出てたら舐めておけば治るから程度の感覚で、律だけが好きの意味を書き換えられた。ならば、 手を繋ぐ、寄りかかる、そんなものの延長線上に傷ができて血が出てたら舐めるという行為が蓮の中で繋がっている。 単純に蓮の行動パターンが増えたと律の認識をアップデートするだけでいいのではないだろうか。律が蓮の行動に過剰に反応し、キスだと受け取ってしまったから混乱
「ただいまっ」 普段の穏やかな声ではなく言い捨てるように言って、律は玄関で靴も揃えずかばんを前に抱えて顔を隠すようにしてばたばたと離れの自室に逃げ込んだ。 かばんを乱暴に放り投げて着替えもせずに崩れるようにベッドに突っ伏して引き寄せた枕で頭を隠す。内心はぐちゃぐちゃだ。 蓮の馬鹿っ! なんであんなことしたんだよ! 馬鹿馬鹿っ!! いつも一緒にいて距離が近くても、そんな風にされたことはなかった。どちらが上と言うわけでもないが、兄弟のようなものだと思っていた。だから、手を繋ぐことも寄りかかっていることも抱きついていることも互いに疑問にも思わなかった。けれど、たとえ指先であろうと唇が触れるとなると話が違う。いくら律が誰かを明確に好きだと思ったことがなくても、そのくらいの判別はつく。 舐めとけば治るなんて、子どもの言い分で、更にそれは自分で処理する場合にしか通用しない。「ううー……」 ぎゅ、と頭を隠す枕を握る手を強くして律はくぐもった声を上げる。 律が蓮の行為に嫌悪したならばそれだけの話なのだが、律には嫌悪がない。驚きはしたが、それは不意打ちの反射反応で兄弟同然に育った同性に対する嫌悪感はなかった。そのことが余計に律を混乱させ、たかが指先に触れた唇だけで内心蓮を過剰に罵倒してしまう。 律の中に渦巻いているぐちゃぐちゃが肥大しきって爆発してしまいそうな不安に駆られる。蓮を壊してしまってからずっと律の中に居座るぐちゃぐちゃは、簡単に律を不安にさせてしまい、できるだけ目を背けていたが肥大しすぎたそれはもう目を背けられない存在になってしまって、いままでの全てを根底から覆していってしまいそうだ。「あのさー……律。ごめん。あんなにびっくりすると思わんくて」 ふいに蓮の声が背中から聞こえた。いつの間に帰ってきたんだろうと考える余裕も律にはなかった。「びっくりしたよ! 蓮はああいうの誰にでもするの」「……なに言ってんの? 律だからじゃん。んーっと、ちびっことうちの親父や修治や兄貴たちは置いといてさ、俺が律以外のやつのこと要るって言ったことないと思うんだけど?」「なにしたかわかってんの!?」「傷、血ィ出てたから舐めようとした」 怒鳴ってはいけない、と頭ではわかっているのに律の声は大きくなっていたが一方的に怒鳴り散らすよりも混乱の方が前面に出ていたからか、蓮は
「……あ。またやっちゃった」 夜に自室で課題のプリントを解きながら思わず律は呟いた。口の中に爪の欠片。ここ数日無意識のうちに爪を噛んでしまうことが多くなった。元々そのような癖はなく、ごく最近のことだ。左の親指の爪がボロボロになったことに気付いてからは気を付けるようにしているのだが、なにかに集中していると注意を忘れて噛んでしまう。もう左手の爪は噛み跡でぎざぎざになってしまっている。更に、小さなささくれをむしってしまっており、爪の生え際に血の滲んだ跡がいくつか。 律はそんな自分の手を嫌だな、と思う。ボロボロの爪のまま蓮の頭を撫でたら、髪を引っかけてしまいそうだ。──触れないけれど。想像するだけだが。 隣の部屋からは微かにゲームのプレイ音が聞こえる。いままでなら律はその隣で蓮のゲームや部屋にある雑誌を眺めていた。けれどそれは蓮が律が傍にいることを無条件で許していたからだ。もうそんな風に近くにいたら、いつ蓮を驚かしてしまうか、怯えさせてしまうか予測さえできない。結果、律は蓮の部屋に入ることも少なくなり、暇を持て余して課題のプリントで気を紛らわしている。 律の爪先にぎざぎざの歯形が増える。ささくれをむしってしまった後の小さな傷が増える。 隣の部屋からがちゃ! と大きな音がした。ゲームの音が聞こえなくなり、ゲームオーバーになった蓮がコントローラーを苛立ち紛れに投げ出したのだろう。普段ならば「負けたー」と悔しそうに言うだけで、蓮は物に当たらない。喧嘩っ早く、武道の腕があっても粗野なのではない。それは律が一番よく知っている。***** 普段よりもほんの少しだけの距離。そんなことを律は気にかけていた。近付きすぎなければ普通でいられる。癖のように触れてしまって驚かすことも怯えさせることもない。蓮にくっつかれることも寄りかかられることも、触れられることも嫌ではない。ただ、律から手を伸ばしてしまうことが問題なのだ。だからほんの少しの距離が必要だった。 それが律が蓮に普段と変わらない振りを装え、不自然にもなりすぎないラインだ。 朝、蓮を起こす起こし方、学校での過ごし方、帰ってきて眠るまでの過ごし方が少しずつ変化する。けれどひとつひとつは些細な変化でしかないはずだった。なのに、それすらもうまくいっていないようで律に小さな不安と迷いが蓄積されていく。 胸の奥のぐちゃぐちゃが